持ち込みにまつわるエトセトラ?

 漫画雑誌などでは「原稿の持ち込み、大歓迎!」といった告知を目にすることがよくあると思います。
 対して小説の編集部では原稿の持ち込みを受け付けているところはほとんどありません。
 なぜでしょう?
 理由は明白です。
「漫画にくらべて小説の原稿を読むのはめっちゃ時間がかかるから」です。
 GA文庫フォーマットで256ページある作品でしたら、だいたい2時間弱はかかるのが普通でしょう。しかし同じ256ページでも漫画だったら20分前後で読めます(まあ、いきなりそんな大作を持ち込む人はいないでしょうが……)。
 仮に小説で原稿持ち込みを受け付けるとしたら、「無言で原稿を読む編集者の前で2時間弱も心臓ばくばくいわせながら待ち続ける持ち込みの人」という大変健康に悪い、針のむしろなシチュエーションが発生してしまいます(※どMの人にはたまらないかもしれませんが)。
 私も10代の頃、某少年漫画誌に持ち込みに行っていましたが、初めて目の前で作品を読まれた時は、自分から来たにもかかわらず1分ほどで逃げ出したくなりましたしね(笑)。
 なにしろ緊張するし、恥ずかしいし、編集者のちょっとした動作(たとえば咳払いとか、うーんと唸られたりとか……)に、いちいち「びくっ」と反応してしまって心臓止まりそうになりますし……。
 初持ち込みは30分ほどで終了しましたが、それでもかなりの精神的ダメージが残りました。なのでこれが2時間弱続くと考えると、ちょっとした拷問といっても良いと思います。
 閑話休題。
 ではなぜ小説原稿は読むのに時間がかかるのでしょうか?
 これも理由は明白です。
 それは言葉が「記号」だからです。
 漫画原稿だったら、ざーっとページをめくって全体の印象をつかむことができます。しかし小説の原稿ではそれができません(※改行の少ない原稿では「うわ~、みっちり文字詰まってんな~、真っ黒だわ~」という印象、逆に改行の多い原稿では「うわ~、下半分メモ帳だわ~」という印象を受けることはありますが(笑))。
 たとえば「山」が出てきた場合。
 漫画だったらそれがどんな山か、絵を見れば一目瞭然です。高いのか低いのか、鬱蒼と木が生い茂っているのか、禿山なのか、冠雪があるのかないのか……視覚情報をそのまま受け取ればいいわけです。
 しかし小説の中で「山」と書かれても、それがどんな山なのか、その周辺にある描写を丹念に読みとっていかなければ具体的なイメージを浮かべることはできません。
 それは「山」という言葉自体に、およそ人間の想像しうるすべての「山」というイメージが内包されているからです。
 ゆえに、それがどのような「山」なのかは、周辺の描写を読み取って解釈したのち、ようやく具体的なイメージとして脳内に立ち上がっていくわけですね。
 こう書いてしまうと、漫画のほうが小説より優れていると言っているように受け取られてしまうかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。視覚情報で提供される表現は読者に想像の余地を残してくれない、という側面もあるからです。妄想をたくましくふくらませる(笑)ためには、むしろ文字情報の方が良いという面もあるわけですね。
 まあ、挿絵の多いライトノベルというジャンルではまた別の問題も生じてくるわけですが、そこに言及してしまうと長くなってしまうので、その辺りはまた稿を改めて……。
 要は表現活動にとっては「それぞれの表現様式の特性を理解することが肝要」ということですね。これは漫画、小説に限らず、アニメでも映画でもゲームでも音楽でも演劇でもお笑いでもなんでも同じことだと思います。
 ということで普段何気なく読んだり聴いたりしているものでも、そういったことを意識してみると、また新しい発見があって「一粒で二度お得」かもしれませんよ、という締めなのでした。