情報遮断の効用

 若いうちはどんどん新しいことを吸収していくべきだと思いますけど、ある程度の歳になったら、逆に情報を遮断して自分の中に何があるのか見つめてみるのも良いのではないでしょうか。
 最近そんなことをつらつらと考えています。
 たとえば映画が観たいな、と思ったとします。
 その気になれば今は映画館でも、テレビでも、CATVでも、ネットでも、レンタルでも、それはもう簡単には数えられないぐらいたくさんの作品が観られる環境が整っています。多すぎて逆に困るぐらいです。
 そんなとき、その膨大なラインナップを前に右往左往するより、目を瞑って心を落ち着け、自分の中を探ってみるのです。
 しばらくすると、「そういえば学生時代、ヤン・シュヴァンクマイエルにはまったことがあったなあ……」と不意に思い当たったりします。
 これはほんの10分前までは考えもしなかった、思いがけないことです。
 そうしてもう一度そのラインナップをよく見てみると、某映画専門チャンネルでちょうど「ヤン・シュヴァンクマイエル特集」をやっていたりして……!(※こういうプチ・シンクロニシティに出会うとちょっと幸せな気分になりますね)
 余談ながらヤン・シュヴァンクマイエルの「フード」「闇・光・闇」は今観ても最高ですね!
 また、なぜ自分はヤン・シュワンクマイエルが好きなのか、どこに魅かれているのか、その面白さの本質はなんなのかなどなど、当時とはまた違った視点でいろいろと考えることができるのも楽しいですね。
 結局情報を入れてばっかりだと、自分の中に堆積したものが、本当にただ堆積していくだけなんで、もっと自分の中を掘り起こしていくのも良いと思うんですね。
 自分の中に堆積したものを、発酵・熟成させてこそ「情報を自分のものにした」と言えると思うんです。つまり情報を入れっぱなしにしない。
 みなさんもちょっと立ち止まって自分の中を見つめてみると、そこにちょうど収穫時のものや、熟成されたもの、そして掘り出し物があるかもしれませんよ。
 そして、こうした作業が洗練されたものが、いわゆる禅とか瞑想とか祈りとか内観とかいった類のものになっていくのではないかなあ……とも最近ぼんやり思っています。
 最新の作品・流行をおっかけるのももちろん大事だと思いますが、たまには立ち止まって「結局何が面白いのか」ということを、自分の中に蓄積したものを眺めながら、じっくり考えてみるのも楽しいんじゃないでしょうか。
 情報の洪水に流されがちな自分に対しての、自戒もこめて。