■6月xx日
 最近歳のせいか物忘れが激しいです。
 いや本当に冗談でなく、メガネをしたまま「メガネどこやったっけ?」をやってしまうレベルなので結構やばい自覚があります。
 ということで貴重品はすべてベルトにぶらさげる、ストラップ仕様で所持することにしています。
 現在、カギと携帯と電子辞書と財布をそのようにして持っているので、腰回りはヒモ(=ストラップ)だらけの状況。
 我ながらじゃらじゃらヒモつけてみっともないという自覚はあるのだけれど、電子辞書を忘れてしまった前科があるだけにつけたくないとも言えず……。
 逆に考えましょう。
「すべてを覚えていたら生きていけない。人は忘れることで生きているのだ」と。
 皆さん、そうは思いませんか?
 悲しいこと、辛いこと……すべてを事細かに、微に入り細を穿つレベルで記憶を保っていたらとても精神がもたないはずです。思い出すたびに新たに傷をえぐられるわけですから。
 それを日薬(ひぐすり)によって忘れることができるからこそ、私たちは日々を生きていけるのです。
 そう、「忘却」とは人間が本来持っている防衛機構、広い意味での心の自然治癒力なのですよ!
 ……100人中、3人ぐらいはだませた自信があります。
 とりあえずこれ以上ヒモが増えないことを祈るばかりです。
■6月xx日
 イラストレーターRさん、漫画家Wさんとそれぞれ初の打ち合わせ。
 今秋から始まる新シリーズのイラストをお願いさせていただいているので、顔合わせも兼ねてそのイメージの詰めがメインです。
 いろいろとお話をさせていただく段階で、「そうか、●●(キャラ名)はこんな表情をする娘だったんですね!」とか「ああ! なるほどその絵づらはいいですね、これは思いつかなかった!」などなど、新しい発見がその場で次々出てくる瞬間はやはりワクワクしますね。
 普段はメールや電話でやりとりをすることが多いですが、やはり実際に顔を会わせて直接打ち合わせる……というのは大事だと思います。
 現場の編集作業はデジタルがほとんどですが、人間同士、やはりアナログな部分をもっと大事にしていかないといけないな~と切に思う今日この頃です。
■6月xx日
 うちのこどもはトマトが大好きです。でもトマトジュースは大嫌いです。
 ある日なんでトマトジュースがそんなに嫌いなのか、訊いてみました。
「味がトマト過ぎるから!」
 あはははは。何を言ってるんだお前は。あはははは。
 ……ひとしきり笑ってから気がつきました。
 こいつ、案外深いこと言ってるんじゃないかと。
 これは「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の具体例じゃないかと。論語じゃないかと!
 本人はまったくそんな自覚はないと思いますが、こどもはたまに深いことをさらりと言ってこちらをびっくりさせてくれます。深すぎて判らないこともたびたびですが。
遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
 梁塵秘抄(りょうじんひしょう)に収められたこの歌を、まさに地でいくこどもの姿を見せてもらえるのは、とてもありがたいことだと思うのでした。オイタもいっぱいするけどな!

   

 前巻の「戦塵外史 四 豪兵伝」から、約2年半。待望の戦塵外史シリーズ最新刊「戦塵外史 五 ―戦士の法―」がいよいよ6月に発売となります!
 物言わぬ大男と、過酷な運命を背負った少女の、奇妙な旅の結末は……!?
 重厚かつ骨太でありながら、人間の機微を穿つような繊細な描写も同居する……そんな花田ワールドをぜひぜひ心行くまでご堪能ください。
 今回は戦塵外史シリーズ初の長編書き下ろしで、読み応えもばっちりですよ。
 そしてこれまでのシリーズでもおなじみの、あのキャラクターの登場も!? あ、これは読んでからのお楽しみですね。
 さて今回は「戦塵外史 五 ―戦士の法―」の発売を記念して、メインキャラのデザインラフを特別公開! 廣岡先生の手によって生き生きと命を吹き込まれた彼らを、ぜひじっくりとご鑑賞ください。

写真!

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■5月xx日
 都内某所にて第2回GA文庫大賞受賞式パーティ開催。
 今回は4名の新人作家さんが誕生いたしました。いずれも応募総数796作品の激戦の中から勝ち上がった強者の皆さんです。これからのご活躍を大いに期待しておりますー!
 ……え~と2次会は某居酒屋に場所を移して行われたわけですが、途中から記憶が曖昧です。確か●●●が●●してたり、△△さんが△△されてたり……。あれ? そういえば××さんが××もしていたような……。
 ま、楽しかったからいいよね! 終わり良ければすべて良し!(←おい)
■5月xx日
 今さらながらKORGのDS-10にハマる。
 いや~、これ面白いっすわ~。
 曲なんか作らなくてもぐりぐり音を作っているだけでかなり幸せな気持ちになれます。
 そいでもって、てけとーに音をいじって、てけとーにドラムパターン作って、てけとーにエフェクト設定して、てけとーにカオスパッドで演奏するだけですげえトリップできます。幸せ。
 そういえば子供の頃、最初に欲しかったシンセもKORGのPOLY-800でしたっけ。まさかこんな形でKORGのシンセを手にしようとは……! 時代の流れはあまりにも速いでござるョ。
■5月xx日
 編集長がちょっとTwitterでもつぶやいてましたが、編集部を出た廊下にはサンドイッチ、惣菜パン、おにぎり、カップ麺が収まった自販機が鎮座しております。
 小腹がすくと小銭を握り締めて、ここから食料を調達するわけですが……。
「どさっ!」なんですよ、「どさっ!」。
 いや、意味が判らないと思うんですけど、本当に「どさっ!」なんです。
 たとえばおにぎりを買うと、下からせりあがってきたプラスチック板の上に、おにぎりが載って下の取り出し口まで移動していくんですが、最後に「どさっ!」という感じで、それを放りやがるんですよね! 取り出し口に!
 まるで「これでもお食べ! 入稿に追われてひいひい言っているボロボロのあんたにはこれがお似合いだよ!」とか言われてる感じなんですよね!!(考えすぎ?)
 しかしそんな仕打ちもいつか快感に……変わることなく、今日にいたっております。鶴亀鶴亀。
 それにしてもあの「どさっ!」は本当になんとかならんものだったんでしょうかね。オフィスグリコのセルフサービスな優しさが身に沁みますわ。

   

■5月xx日
 GW。
 ガンダムウイング。
 すいません、今、世界で一番つまらないボケをしました。猛省しております。
 それはさておき、GWなんですが新人賞の原稿を読んでいましたよ!
「え? このまえ発表があったばかりだろ?」ですって?
 ふふふ……第三回前期の読みがすでに始まっているのですよ! ぎゃーす!
 ……俺、この原稿全部読んだら田舎に帰って小粋な割烹始めるんだ……。
■5月xx日
 あまりにも首・肩がばきばきなので久しぶりに整体に行く。
 揉まれること30分。
私  「やっぱり相当ひどい凝りですか?」
整体師「いやー、全然。まだまだ柔らかい方ですよ。もっとひどい人はいっぱいいますね」
 ……そこはやっぱり「これはひどいですねー、相当凝ってますよ」だろ! 普通に考えて! 俺は客観的なデータなんか求めてないんだよ! 「お客さん、仕事大変ですね。頑張ってるんですね」的な癒しが欲しいんだよううう! 客商売ならそのへん察しろよっ!
 ……はあはあ。すいません、ちょっと取り乱しました。
■5月xx日
「バリサン」という言葉を今、知りました。
 ……若者言葉にキャッチアップしていく限界を感じる今日この頃です。

   

 漫画雑誌などでは「原稿の持ち込み、大歓迎!」といった告知を目にすることがよくあると思います。
 対して小説の編集部では原稿の持ち込みを受け付けているところはほとんどありません。
 なぜでしょう?
 理由は明白です。
「漫画にくらべて小説の原稿を読むのはめっちゃ時間がかかるから」です。
 GA文庫フォーマットで256ページある作品でしたら、だいたい2時間弱はかかるのが普通でしょう。しかし同じ256ページでも漫画だったら20分前後で読めます(まあ、いきなりそんな大作を持ち込む人はいないでしょうが……)。
 仮に小説で原稿持ち込みを受け付けるとしたら、「無言で原稿を読む編集者の前で2時間弱も心臓ばくばくいわせながら待ち続ける持ち込みの人」という大変健康に悪い、針のむしろなシチュエーションが発生してしまいます(※どMの人にはたまらないかもしれませんが)。
 私も10代の頃、某少年漫画誌に持ち込みに行っていましたが、初めて目の前で作品を読まれた時は、自分から来たにもかかわらず1分ほどで逃げ出したくなりましたしね(笑)。
 なにしろ緊張するし、恥ずかしいし、編集者のちょっとした動作(たとえば咳払いとか、うーんと唸られたりとか……)に、いちいち「びくっ」と反応してしまって心臓止まりそうになりますし……。
 初持ち込みは30分ほどで終了しましたが、それでもかなりの精神的ダメージが残りました。なのでこれが2時間弱続くと考えると、ちょっとした拷問といっても良いと思います。
 閑話休題。
 ではなぜ小説原稿は読むのに時間がかかるのでしょうか?
 これも理由は明白です。
 それは言葉が「記号」だからです。
 漫画原稿だったら、ざーっとページをめくって全体の印象をつかむことができます。しかし小説の原稿ではそれができません(※改行の少ない原稿では「うわ~、みっちり文字詰まってんな~、真っ黒だわ~」という印象、逆に改行の多い原稿では「うわ~、下半分メモ帳だわ~」という印象を受けることはありますが(笑))。
 たとえば「山」が出てきた場合。
 漫画だったらそれがどんな山か、絵を見れば一目瞭然です。高いのか低いのか、鬱蒼と木が生い茂っているのか、禿山なのか、冠雪があるのかないのか……視覚情報をそのまま受け取ればいいわけです。
 しかし小説の中で「山」と書かれても、それがどんな山なのか、その周辺にある描写を丹念に読みとっていかなければ具体的なイメージを浮かべることはできません。
 それは「山」という言葉自体に、およそ人間の想像しうるすべての「山」というイメージが内包されているからです。
 ゆえに、それがどのような「山」なのかは、周辺の描写を読み取って解釈したのち、ようやく具体的なイメージとして脳内に立ち上がっていくわけですね。
 こう書いてしまうと、漫画のほうが小説より優れていると言っているように受け取られてしまうかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。視覚情報で提供される表現は読者に想像の余地を残してくれない、という側面もあるからです。妄想をたくましくふくらませる(笑)ためには、むしろ文字情報の方が良いという面もあるわけですね。
 まあ、挿絵の多いライトノベルというジャンルではまた別の問題も生じてくるわけですが、そこに言及してしまうと長くなってしまうので、その辺りはまた稿を改めて……。
 要は表現活動にとっては「それぞれの表現様式の特性を理解することが肝要」ということですね。これは漫画、小説に限らず、アニメでも映画でもゲームでも音楽でも演劇でもお笑いでもなんでも同じことだと思います。
 ということで普段何気なく読んだり聴いたりしているものでも、そういったことを意識してみると、また新しい発見があって「一粒で二度お得」かもしれませんよ、という締めなのでした。